■いよいよ舞台は浜松へ
しだいに「松潤家康」のキャラクターが浸透してきた大河ドラマ「どうする家康」ですが、いよいよ舞台が浜松に移ってきます。
このドラマは、1人の弱く繊細な若者が、大名の子として生まれた宿命を背負い、必死に悩み、もがき、苦しみながら乱世を生き抜き、やがて戦国の世を終わらせ、太平の世を築く「奇跡と希望」の物語なのですが、武田信玄公や織田信長公などの強烈な個性を放つ大名に翻弄(ほんろう)され、もがき、苦しむ浜松時代は、ドラマの中でも最も重要な部分を占めるはずです。
まず、最初のハイライトは三方ヶ原の戦いです。武田軍に完膚(かんぷ)なきまでに叩かれた負け戦を通じて、徳川家康公は多くのことを学びます。この後は、野戦においてほとんど負け知らずという戦績を考えれば、この戦いがいかに重要であったかということがわかります。
信長公の命で、正室瀬名と長男信康を殺さなければならなかった悲劇も浜松時代の大きな出来事です。家康公にとっては、身を引き裂かれるような苦渋の決断であったと思います。
その信長公が本能寺で討たれたと知らせを受け、巻き添えにあう難を逃れた有名な「伊賀越え」も浜松時代です。そして豊臣秀吉公と互角以上に渡り合い、実質的に秀吉公に次ぐ戦国大名ナンバー2の地位を確立した小牧長久手の戦いまで、浜松城を居城として活動しました。
年齢で言えば、29歳から45歳という人生で一番重要な時期であり、この間に4万石の大名から100万石を超える大大名に飛躍しています。まさに天下平定の礎を築いたのが浜松時代だと言えます。
家康公が浜松で出世したことに加え、江戸時代には、浜松の代々の城主が、江戸幕府において老中や寺社奉行などの要職に抜擢(ばってき)されたことから、浜松城は縁起のよい城として「出世城」とも称されるようになりました。このエピソードを活用し、浜松のシティプロモーションに取り組んだのが、「出世の街浜松」です。
出世は、高い地位に上り詰めるという成功のことだけを指すのではなく、「大きな志」を実現するという意味も含みます。家康公には、「厭離穢土(えんりえど)、欣求浄土(ごんぐじょうど)」の御旗(みはた)に象徴されるように、戦国の世を終わらせ、太平の世を築きたいという大きな志があり、時代に翻弄(ほんろう)されながらもその大志を実現し、徳川260年の平和な時代の扉を開きました。
これまで徳川家と言えば、岡崎市や静岡市との結びつきが有名でしたが、大河ドラマ「どうする家康」を通じ、実は浜松との関わりが最も重要だったことが広まります。そこで大河ドラマを一過性のブームに終わらせず、放送後も徳川家との関係を発展させることにより、交流人口の増大などを図っていきたいと思います。
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