JR浜松駅から西へおよそ2kmの場所に市内最大規模の古代遺跡・伊場遺跡があります。
遺跡からは、重要な古代資料が次々と出土し、また、百を超える数の木簡(もっかん)が見つかったことでも話題になりました。
今年はその発見から70年目の年。伊場遺跡が伝える、千年超、はるか昔の浜松に思いをはせてみませんか。
●木簡・墨書(ぼくしょ)土器の出土
伊場遺跡からは、弥生時代以降のさまざまな時代の資料が発掘されました。その中でも注目を浴びたのが、奈良・平安時代の文字資料の発見です。それまで当時の都以外に関する文献資料はほとんど伝わっていない中で、薄い木の板に文字を記した木簡や、墨で文字が書かれた土器(墨書土器)といったものは、重要な考古資料として認められ、県指定文化財にもなっています。
●資料から分かる「古代の東海道」の存在
発見された文字資料の中には、奈良時代の役所の給食施設を示すものや当時の郡の役職名が記されたものもあり、浜松に古代の遠江国敷智郡(とおとうみのくにふちぐん)の役所があったことが分かりました。また、2017年には「栗原駅」と記された資料が新たに発見されました。
「栗原駅」は、古代東海道に置かれた駅(駅家(うまや))で、平安時代の古文書にもその名が見られます。資料から、伊場遺跡内もしくはその近くのどこかに栗原駅があったこと、そして「古代の東海道」が通っていたであろうことが明らかになりました。しかし、駅の建物や道の跡は、まだ見つかっていません。
●「古代の東海道」とその役割
東海道というと江戸時代に家康公が整備したというイメージがありますが、その基となる「古代の東海道」は、今から1300年前には既に存在していました。
奈良時代、中央政権は、地方の隅々まで統制するため、さまざまな仕組みを整えました。その一つが、中央と地方の国々の中心地を結ぶ真っ直ぐな道、駅路(えきろ)の整備です。「古代の東海道」は、この駅路の一つです。都から東海道沿線の各国への命令や情報は、東海道を通って届けられました。逆に、都に国の行政状況などを報告する各国の使者は、東海道を通って上京しました。また、税の物納品を都へ運ぶ人や、兵役のために上京する人も、東海道を利用したと考えられます。「古代の東海道」は、都と地方を結ぶ重要な道でした。
●いにしえより東西交通の要所であった浜松
駅路には、道沿いに一定間隔で駅が置かれ、駅には 馬と人が配備されていました。都と地方を行き来する使者は、駅ごとに馬を乗り替え、リレー方式で情報を伝えました。駅では馬の世話をはじめ、使者に食事や宿を提供したり、雨具や馬具などの道具を用意したりしていました。この情報伝達のための制度を駅伝制といい、現在の陸上競技の「駅伝競走」という名前の由来にもなっています。
主要幹線道路である東海道が通り、その中継のための駅が置かれた浜松は、古くから東西交通の要所であったと言えます。
□1300年前の東海道のすがた
・遠江:現在の静岡県西部地方
・栗原駅:奈良・平安時代、伊場遺跡の周辺にあったとされる駅
・平城京:奈良時代の都(現在の奈良県)
※詳しくは広報紙面をご覧ください
▼最初に木簡を発見した
向坂鋼二(むこうざかこうじ)さん
元博物館館長
前静岡県考古学会会長
私が調査に携わった頃、伊場遺跡の発掘は、私を含め2人だけで行っていました。弥生時代の遺跡だと聞いていたので、奈良時代の木簡が出てきた時は非常に驚きました。役所跡や駅家跡の資料が見つかった例は全国的にも珍しく、大変貴重な発見だと言えます。市民の皆さんには、このような遺跡が市内にあることを忘れずにいてほしいです。
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