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【特集】三方ヶ原の戦いから450年〜語りつがれてきた伝承と新たに分かってきたこと〜・1

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静岡県浜松市

元亀3年(1572)に徳川家康と武田信玄が浜松の地で戦った「三方ヶ原の戦い」から、今年で450年を迎えます。
三方ヶ原の戦いは、後世にも大きな影響を与え、さまざまな伝承やイメージが形成されてきました。
こうしたことから、市では市民の皆さんとの協働で、地域に残る伝承を広く調査してきました。
今月は、三方ヶ原の戦いを振り返るとともに、戦いや徳川家康にまつわる伝承などを紹介します。

■序章
◇遠江地方が今川氏の支配から徳川氏の支配へ
戦国時代、浜松を含む遠江は、駿河の今川氏に支配されていました。しかし、永禄(えいろく)3年(1560)、今川義元が桶狭間の戦いで討ち死にしたことで、今川氏の支配は急激に弱体化します。
三河の徳川家康と甲斐の武田信玄は、今川氏の弱体化につけこみ、今川領を大井川を境に分け合う(遠江を徳川領、駿河を武田領とする)密約を結び、侵攻を開始します。徳川家康は、永禄12年(1569)に掛川城を開城させ、同年末には、遠江全域をほぼ支配下に収めました。
元亀(げんき)元年(1570)、遠江を支配した徳川家康は岡崎城を長男の信康に譲り、引間(ひくま)城へと移ります。この前後に引間城を取り込む形で、西側の丘陵を利用して大規模な城へと増築が進められ、名前も浜松城へと改められました。

◇信長の意見がなかったら、家康の居城は磐田だった?
徳川家康は当初、見付宿(現在の磐田市)南東の丘陵上に築城を始めます。見付は遠江国の国府や守護所が置かれた行政の中心地で、東海道の中でも規模が大きい宿場でした。
築城の途中、同盟関係にあった織田信長から、居城は浜松に築くようにと意見がありました。駿河を新たな領土とした武田信玄に攻められたとき、仮に城を脱出できたとしても天竜川で追い詰められてしまう可能性があること、天竜川が織田信長からの援軍の妨げになることが、浜松を勧めた理由でした。徳川家康は取りかかっていた見付の築城を取り止め、浜松を居城の地とすることにしました。
もし、織田信長からの意見がなく、徳川家康が当初の予定どおりに磐田の見付を居城の地としていたとしたら…。
浜松の都市としての規模や発展は、現在とは異なっていたかもしれません。

■その1 三方ヶ原の戦いが起きた原因
◇武田信玄が徳川家康に対して募らせた「三ヶ年の鬱憤(うっぷん)」とは?
今川領への侵攻の際、徳川家康と武田信玄は、領土を分け合う密約を結んでいましたが、武田軍が遠江に侵入してきたため、徳川家康は武田信玄に対して不信感を抱きはじめます。
元亀元年(1570)、徳川家康は武田信玄のこうした動きに対抗するため、上杉謙信と同盟を結びます。これを受けて武田信玄も織田信長に対して、徳川家康の動きを押さえるよう要請しますが、織田信長は応じませんでした。
武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川家康と対決するに至る意思を表明した※書状の中に「三ヶ年の鬱憤」という言葉が見えます。これは、元亀元年(1570)に徳川家康が上杉謙信と同盟し、武田方をけん制する対応をとったことなどに対するものです。
このように、両者の関係は衝突が避けられない状態まで悪化していきました。
※10月22日(土)から博物館で開催される特別展「三方ヶ原の戦いと家康伝承」では、この書状が公開されます

■その2 武田軍の進軍ルート
◇武田軍(本隊)が遠江に侵攻してきたルートは北遠ルートではなかった?
元亀3年(1572)10月、武田軍は甲府を出発し、軍勢を二隊にわけて遠江に向けて進軍します。
本隊は駿河から高天神(たかてんじん)城(掛川市)に至り、遠江へ入ります。一方、山県昌景らの隊は東三河から侵攻し伊平城(北区引佐町伊平)を攻略して二俣(天竜区二俣町二俣)で本隊と合流しました。
この遠江侵攻経路については、これまでは信濃から南進して遠江に入ってくる青崩峠(あおくずれとうげ)(天竜区水窪町奥領家)を通るルートが通説でしたが、近年の研究では、東(駿河)から西に向かって遠江に入ってくるルートが提起されています。
武田軍が出した文書(※禁制など)のあて先を日付順に並べていくと、東から西に向かうルートが見えてくるため、このような説が提起され、支持を得ています。
※禁制(きんぜい)とは
簡単な禁止命令を記載した文書。軍隊が村などを通過する際に兵士が乱暴したり、略奪したりしないように、あらかじめ、その軍隊(大名家)からもらっておく場合がある。
※武田軍の遠江侵攻経路の地図は広報紙をご覧下さい

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