今年は徳川家康公が浜松城を築城してから450年目の記念の年。450年の間に、浜松城は大きな変化を遂げ、今も私たちの心のシンボルとして浜松の地にそびえ立っています。
浜松城が築城されてからの450年間を振り返ってみましょう。
■家康公が浜松城を築城する
家康公が浜松城を築城する以前の浜松には、今川氏家臣の飯尾氏が在城した引間(ひくま)城と呼ばれる城がありました。現在の元城町東照宮とその周辺にあたります。
1570年、家康公が遠江に拠点を移し、引間城を西へ拡張して、名を浜松城としました。三方原台地縁辺部の階段状の地形を利用し、西側の一番高い場所から順に本丸、二の丸を配置し、周囲には堀や土塁といった防御施設ををめぐらせた東向きの城でした。
1572年、家康公は遠江へ侵攻した武田氏と三方ヶ原で戦い、敗れましたが、浜松城は守り抜きます。その後、武田氏の脅威がなくなるまで、侵攻に備え、何度も浜松城の改修を行った記録が残っています。
▽お城の基本知識
・本丸・二の丸・三の丸
城を構成する空間を曲輪(くるわ)と呼ぶ。城の中心となる曲輪を本丸、それに続く曲輪を二の丸、三の丸と呼ぶ。本丸の西側にあれば西の丸と方角で呼ぶ場合もある。また、浜松城には、本丸の中にさらに天守曲輪がある。
・天守
城の本丸に築かれた城を象徴する高層建築物。織田信長公は生活に使用したが、一般的に倉庫や籠城(ろうじょう)時の最終拠点として使われた。
▽家康公の活躍した時代は、城づくりの大きな変革期
家康公が戦国大名として活躍した戦国時代の城は、土を掘って堀を巡らせ、土を盛って土塁を築き、簡素な建物を建てた城がほとんどでした。
ところが、信長公が安土城を築いたころから、高い石垣を積む技術や高層の瓦葺(かわらぶ)き建物を建てる技術など、専門の技術者がいないと建てられない城が登場します。信長公の後継者となった豊臣秀吉公も高度な技術を城づくりに生かしました。家康公は、天下統一後、その技術を継承し、江戸城や名古屋城、駿府(すんぷ)城などの巨大な城づくりを行いました。
◇浜松城築城で活躍した“浜松大工”
戦国時代は、城や城下町の建設のため、大工をはじめとする技術者の需要が急激に高まります。三河から遠江へ侵攻した家康公は、遠江を平定するため浜松を本拠地としました。その時、家康公の浜松城築城に大きく貢献したのが、浜松大工です。
動乱の世では、大工も戦に駆り出されました。大工たちは、陣小屋の設営や敵陣偵察のための物見やぐらを作るなど、戦場で己の技術を生かした活躍をし、三方ヶ原の戦いや、関ヶ原、長篠、小田原での戦いなどでも貴重な戦力として家康公に従軍しました。
浜松大工の中には、江戸時代も幕府から格別の計らいを受けた者もいました。
▼浜松大工のご子孫にインタビュー
株式会社杉浦建築店
代表取締役 杉浦悦郎(えつろう)さん
創業450年、先祖代々建築業を営み、私で23代目となります。先祖は三河から来たと聞いており、もしかしたら、三河からこの地まで、家康公にお供した大工の一人かもしれません。
私の家は、江戸時代に浜松城の大手門があった場所のすぐ横にあります。これは、浜松城の築城に携わった先祖が、その後も城の修繕にすぐ駆け付けられるよう命じられたためと聞いています。
先祖は城の建築と修繕の他、城下町の建物も手掛けたと聞きます。浜松城の鍵も預かっており、以来、蔵に保管していましたが、残念ながら太平洋戦争の戦火で失ってしまいました。
私も小さい頃から浜松城を見て育っています。市街地のすぐ近くに、まちのシンボルとして建っている浜松城が大好きです。浜松城を見た人たちに、同じように浜松城を大切に感じてもらえたら、一市民として幸せに思います。
■堀尾氏が石垣・天守を建造
1590年、豊臣秀吉公が天下統一を成し遂げ、家康公は江戸に移りました。浜松城には秀吉公の家臣である堀尾氏が入城し、高い石垣や、天守をはじめとした瓦葺きの建物を備えた城へと大改修しました。大名や領民、東海道を通る人々に豊臣政権の権力や財力・技術力を示す意味がありました。
堀尾氏によって築かれた石垣には、あまり加工していない自然の石を巧みに積み上げる「野面積(のづらづみ)」という技法が用いられています。高さが5mを超える石垣が随所に築かれ、当時の高い技術力をうかがい知ることができます。
■発掘調査が語る浜松城
2018年に実施した発掘調査により、浜松城の天守曲輪は高さ3mほどの石塁に囲まれていたことが判明しました。天守曲輪南東隅にはやぐら台とみられる石垣があり、付近には大量の瓦が埋もれていることが分かりました。瓦は、堀尾氏が浜松城を整備したころに製造された瓦の特徴を持っており、このことから、堀尾期の天守曲輪南東隅には瓦葺きのやぐらが存在したと考えられます。
堀尾氏が整備した浜松城は、現状や絵図から知ることができる浜松城の姿とは大きく異なるものだったことがうかがえます。
■江戸時代の浜松城
1600年、家康公が率いた東軍が関ヶ原の戦いに勝利すると、堀尾氏は出雲へと移ります。浜松は、徳川譜代大名が治めることになり、浜松城も歴代城主によって江戸時代の浜松城へ、その姿が整えられていきます。
浜松城には現存する門などの建物はありませんが、絵図などの古記録から当時の姿をうかがい知ることができます。上級家臣の居住地である三の丸を拡張整備し、大手門を現在の連尺交差点付近に設置。東海道や城下町の整備と一体になった大規模な改修により、南向きの城へと整備されました。
江戸時代の整備を経た浜松城の規模は、東西600m、南北650mにも及ぶ大規模なものとなりました。ただし、江戸時代の絵図に天守が描かれたものは、まだ確認されていません。浜松城の天守は少なくとも江戸時代の早い時期にはなかったと考えられています。
江戸時代の浜松城主は目まぐるしく変わっており、九家二十二代を数えます。城主を務めた人物の多くが、江戸幕府の要職に就き、「出世」していきました。発掘調査では各家の家紋をあしらった瓦が多数出土しており、城主により建物の修理や改修が行われていたことがうかがえます。
◎この特集に対するお問い合わせは、博物館(【電話】456-2208)へお寄せください。
<この記事についてアンケートにご協力ください。>