田畑政治さんのふるさとである浜松・浜名湖は、“水泳ニッポン”の基盤を築いた田畑さんの原点です。
今回も、前回に続いて田畑さんと1964年東京オリンピックについて、ご紹介します。
●田畑政治と1964年東京オリンピック(後編)
昭和39(1964)年9月7日、ギリシャを出発してからアジア各地を旅してきた聖火が沖縄に上陸し、沖縄本島で聖火リレーが行われました。その後、聖火は全国各地を巡り開催地の東京へ無事到着しました。10月10日の開会式では航空自衛隊浜松北基地(現在の浜松基地)所属のブルーインパルスが、国立競技場の上空に五輪のマークを描き、世界の人々を驚かせました。
日本は東京オリンピックで16個もの金メダルを獲得し、選手の活躍に日本中が熱狂しました。
会期後に田畑さんが書いた新聞記事には、自身が終戦後直ちにオリンピックの招致に乗り出したことや、東京・代々木の米軍施設(ワシントンハイツ)を移転させて、その跡地に選手村と屋内水泳場をつくったことなどが記されています。オリンピックを通じてスポーツと平和の素晴らしさを伝えようとしたことがうかがえます。また、組織委員会の大会運営について「空前絶後といわれるベルリン大会を百点とすれば百十点はある」と賞賛しました。
その後、日本水泳連盟名誉会長として、選手強化用の屋内専用プールが必要だと主張し、東京スイミングセンターを設立。ここから北島康介選手など多数のオリンピアンが育っています。田畑さんこそ、日本の水泳界の礎を築いた水泳ニッポンの父といえます。
昭和59(1984)年、ロサンゼルスオリンピックの閉幕を見届けた田畑さんは85歳で亡くなりましたが、先見の明と精力的な行動力は、日本スポーツ界の発展に影響を与え続けています。
【今号が最終回です】
一年以上にわたり、さまざまな角度から田畑さんの生涯を振り返りました。連載は終わりますが、歴史をつくった浜松の偉人である田畑さんの物語をこれからも皆で語り継いでいきましょう。
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