田畑政治さんのふるさとである浜松・浜名湖は、“水泳ニッポン”の基盤を築いた田畑さんの原点です。
今回は、「田畑政治さんと1964年東京オリンピック」について紹介します。
●田畑政治と1964年東京オリンピック(前編)
昭和34(1959)年にドイツ・ミュンヘンでIOC※総会が開かれました。そこで昭和39(1964)年のオリンピック開催地に東京が選ばれ、アジア地域で初となる待望の東京オリンピックが実現することに。
田畑さんは自著の中で「いつの日か、東京に招致して立派なオリンピックをやりたいというのが私の夢であり、おおげさにいうなら私の人生の目標であった」と記しており、その夢が半分かなった日でした。
同年に設立された東京大会組織委員会では、事務総長に田畑さんが就任。事務総長は、実質的な仕事をする一番重要な役職です。
ところが昭和37(1962)年、アジア大会開催国のインドネシアが台湾とイスラエルの参加を拒み、大きな国際問題に。この大会へ日本が参加することを判断した津島会長や田畑さんらは、その責任を取って役職を辞任することになります。
そんな逆境の中でも、田畑さんは組織委員会の委員として全力を尽くし、柔道や女子バレーボールを東京オリンピックの種目にすることに成功しました。
そして昭和39年、田畑さんはギリシャのオリンピアで東京オリンピックの聖火の採火式に参加。この採火によって、ついに東京オリンピックの幕は切って落とされたのです。
(12月号・後編に続きます)
※【IOC】国際オリンピック委員会
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